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アンジェラスの鐘

更新日:2022年8月20日


奄美の受難の歴史と共に歩み、四半世紀ぶり里帰りしたアンジェラスの鐘。

教会の高台から集落の人々の心に平和の音色を響かせています。














大笠利の「アンゼラスの鐘」

―半世紀ぶり里帰りした「鐘」の略歴-


おいたち

ピオゲネット神父様(大正13年~昭和7年大笠利教会主任司祭)が大笠利教会創立25周年銀祝記念の為カナダのご両親や諸外の信者の寄付によりフランスから取り寄せた由緒ある鐘。


鐘の出生地

フランスのサボア地方の首都アヌシー市にある伝統的鐘つくりで有名なパッカー社により1926年作製。パリのモンマルトの世界最大の鐘とは兄弟分。


鐘の銘

鐘のまわりには聖母マリアのイコンと教皇ピオ11世聖下の肖像及び「王たるキリストに捧ぐ+全世界の教会に王たるキリストの祝日を制定し公布した教皇に捧ぐ+1926年+キリストは勝利をおさめ+キリストは王たりキリストは統べ給う」の言葉が刻まれている。


鐘の洗礼

昭和2年10月30日鐘は王たるキリストの御名において教皇使節マリオ・ジャルヂーニ大司教によって武文快氏を代夫、永田アイチヨ女史を代母にたてて洗礼を受ける。鐘の場合の献堂式にあたる祝別することを「鐘の洗礼」と呼ぶ。


受難(昭和の迫害)

昭和5年頃から迫害の兆しが起こり同9年には宣教師全員が島外へ追放され大笠利教会は同12年に放火され全焼する。この頃教会の鐘も姿を消す。


鐘競売に付さる

昭和9年名瀬で教会の鐘が方々より集められて競売に付される。この時名瀬の信者青江清道氏と都成幸一郎氏が集まってきた町の地金屋にまじって鐘を買い取ろうとしたが「信者には売らん」と断られ二人は名瀬の有力者重信加吉氏に相談し重信の名儀で鐘を全部買い取りその代金は宮崎に居た都成仲二氏が支払う。


鐘は宮崎へ疎開

鐘は宮崎へ無事送られ戦時中の供出も逃れ都成氏宅で終戦を迎えることになる。


浦和へ

昭和27年マキシモ神父は埼玉県浦和に聖堂を建設、鐘を取り寄せる。鐘の銘から之が大笠利の鐘であることが判明したが当時奄美は米国の信託統治下にあり大笠利に送り返すことも出来ないので浦和教会のアンゼラスの鐘として復活する。


嘆願書

本田仁義氏が昭和59年春帰郷された折りに浦和の鐘の遍歴を詳細に大笠利の教会に報告する。本田氏は浦和教会で30年間この鐘をつき、ピオ神父やマキシモ神父から之が大笠利の鐘であることを聞かされる。鐘の里帰りを求める嘆願書を昭和59年4月29日付けで大笠利教会役員連名で浦和教会へ送付する。之に対して浦和教会より同年7月15日付で快諾の旨懇切丁寧な返事が届く。


里帰り

昭和59年12月2日浦和教会は島本司教、ローランド神父、山内神父、押川神父による共同ミサで近隣の奄美出身者を招いて盛大な「鐘の里帰り送別セレモニー」を行ない、信者全員によって鐘を奄美に送り出す。

鐘は大島運輸のご厚意により無償で東京-名瀬間を海上輸送され昭和59年12月10日無事名瀬到着。その日のうちに信者有志により陸路大笠利教会搬送。約半世紀ぶりに里帰りを果す。ここに里帰りしたアンゼラスの鐘が再び祈りと平和を告げるその音を鳴り響かせるよう大笠利の信徒は「言い尽くせない賜物の故に神に感謝を捧げ」(2コリ9.15)あわせて浦和教区長島本司教様、ローランド神父様、信徒の皆様の御厚意に心からの敬意と感謝をこめて鐘楼を建立し久遠の記念とする。


1986年9月7日建立  押川寿夫神父 文   大石正己 書

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大笠利教会 奄美市 笠利町 笠利 Tel: 0997-63-8108

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