2023年7月4日「今日のワン」メッセージ

年間第13主日説教「その人をその人として」
今日の福音箇所は、先週の福音に続いて弟子たちを宣教へと派遣するにあたって、イエスさまがお話をされた箇所です。今日の箇所の後半部分では、「弟子たちを受け入れる人の報い」について、イエスさまがこのように話されています。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ずその報いを受ける」と。イエスさまの使命を共に担う弟子たちに向けて、イエスさまはこのように話されました。つまり、私たちに向けてのイエスさまの言葉です。私たちはみんなイエスさまの「弟子」だからです。イエスさまの「弟子」だと言われると、なんだかおこがましい気持ちにもなりますが、皆さんは「イエスさまの弟子」と聞いて、どのような人たちのことを思い浮かべるでしょうか。イエスさまの「弟子」なんだから、きっと弟子としてイエスさまの生き方に忠実で、正しく、いつも人に優しく、情け深く、忍耐強く、人を赦し、愛に生きているような人、そういう立派で完璧な人を、イエスさまの弟子として連想するかもしれません。そのように生きられれば、それに越したことはありませんが、でもイエスさまはそのような弟子としてふさわしい人間だからという理由で、「冷たい水一杯でもその彼らに飲ませてくれる人は報いを受ける」と言われたのではないようです。なぜなら、イエスさまは、「わたしの弟子だ」という理由で、この「小さい者の一人に・・・」と言われているからです。「わたしの弟子だ」という理由だからです。それ以外に理由はありません。そして、イエスさまはその自分の弟子のことを「小さい者」として見ています。徳高い立派な人、完璧な人、強さや力を兼ね備えた人というイメージとはかけ離れた「小さい者」として「弟子」のことを見て、またそれを弟子というものに求めておられていたようです。この「小さい者」というのは他の福音箇所にもよく出てくる言葉です。社会的に経済的に、あるいは肉体的に精神的にも貧しくて弱い立場にあるような人のことなのか、あるいはイエスさまが祝福された幼い子どものような存在を指しているのか。いろいろ考えられるかもしれませんが、「在りのままのその人」のことを指して、「小さい者」と言っているようです。在りのままの、その存在そのものの価値に目が開かれている人のことを指して、イエスさまは「小さい者」として弟子というものを見ていたのだと思います。弟子たちの中にもいろいろな性格や価値観や人間的な弱さや欠点を持った人たちがいました。でも、イエスさまは「わたしの弟子」という理由で、その弟子である「在りのままのその人」を受け入れて、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は必ずその報いを受けると伝えています。
このことを自分の家族の関係やそれ以外の人との関係に置き換えて味わってみたら、いいかと思います。今日の箇所の前半部分では、イエスさまの言葉に「父や母を愛する」「息子や娘を愛する」という言葉がありました。自分の父や母を愛し、自分の息子や娘を愛するのは当然なこととして私たちは受け止めて、そのように努めています。私たちが父や母を愛するのは、自分の親だからです。息子や娘を愛するのは、自分の子どもだからです。それ以外に愛する理由はありません。でも、その自分の親であっても、ありままのその親を受け入れ愛することに難しさを感じることがあるのではないでしょうか。その逆もそうです。思うように相手が応えてくれず、ストレスを感じたり、愚痴になったり、腹がたったりすることだってあります。それはいちいち言うまでもなく、経験として私たちは知っています。
だから、親も子も、互いを愛するうえで完璧な親もいなければ、子もいません。お互いに欠けたところがある弱さある者として、自分の親だからという理由で、自分の子どもだからという理由で、お互いが受け入れ合って努めていくことが、お互いにとって冷たい一杯の水の報いになり、親として子としての関係を深めていく力になります。家族との関係だけでなく、家族以外の人との関わりにおいてもそうです。それは愛するがゆえの十字架と言っていいと思います。その十字架を担って、あるがままの私たちを受け入れ、このうえなく愛し抜かれた生き方を示されたのがイエスさまです。だから、愛することに疲れを憶えたら、そのありのままの私たちを受け入れてくれたイエスさまの愛にまず生かされることが、イエスさまの弟子としての私たちの歩みを続けていく支えになります。そのように理解したとき、イエスさまが「私よりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない」と言われたその真意が伝わってくるように思います。
Comments