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「今日のワン」(181)

  • mizunoseigi
  • 2023年6月5日
  • 読了時間: 4分

更新日:2023年6月6日

2023年6月5日「今日のワン」メッセージ


「違いがあって一つ」

今日、私たちは三位一体の祭日をお祝いします。普段から私たちが生活の中で慣れ親しみ、身に付けている三位一体です。「身に付けている三位一体」という表現は、少し日本語としておか


しいかもしれませんが、「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」と唱え、十字架のしるしをする行為は私たちの習慣として身についています。三位一体の神さまの愛を自分の身も心にも刻みながら、自分のものにしていく私たちの信仰生活のルーティーンとなっています。

先週、私たちは聖霊降臨をお祝いしました。イエスさまの使命を託された弟子たちのうえに聖霊が降ると、彼らは神の愛に満たされ、力づけられて、イエスさまの福音を伝えるために出かけていき、その弟子たちが語る神の言葉が、言語や人種、宗教、文化の違いを超えて、すべての人々の心に伝わり、広められていく神


秘的な光景が、聖霊降臨の出来事として語られていました。あの聖霊降臨の出来事が私たちに伝えようとしているメッセージは、「違いがあっても一つ」ということです。これが、私たちが信じ、今日お祝いする「三位一体」の神さまのことをよく表しています。

先日、ヒロシマでG7サミットが行われ、各国の首脳が集まり、そこにウクライナのゼレンスキー大統領も急遽飛び入りで参加し、大きくニュースで報道され、原爆地である広島で今回のサミットが開催されることにさらに深い意味合いをもらしてくれたように思います。

世界に向けて平和的解決の実現に向けた一致と協力をアピールする大きな機会にもなったと思います。本来このG7はもともと、ついこの間まではG8でした。ロシアが入っていた集まりです。そう思うと、早くこの集まりにロシアも戻って来ることができるように、平和的解決の実現に向けた対話と連帯への道を切り開いていってほしいと祈るばかりです。あのサミットが伝えようとしていることは、「ひとりにさせない」ということでしょう。それぞれ違いはあるけれど、その違いがまたお互いを傷つけあってしまう原因となってしまっている私たち人間の現実的な弱さがあるけれども、どうしたらその違いが、お互いを生かし合って共に一つとなって歩んでいけるか、私たちはその対話と連帯の道を普段の身


近な生活における関わりにおいても求めながら生きています。

今回の広島でのサミットを前に、サミットが広島で行われる意義について、大阪教区の前田枢機卿が朝日新聞のインタビューに答えていた記事を目にしました。その記事の中で、前田大司教はヨハネ・パウロ2世がかつて広島へ訪れた際に行った平和アピールの言葉を取り上げ、「戦争は人間の仕業です。しかし、戦争が人間の仕業であれば、平和も人間の仕業で実現することができます」という力強い励ましのメッセージを送っていました。この大司教の言葉が自分の中でとても心に響きました。確かにそうだなと思います。そのために、現実的な問題を抱えているその道は険しくても、諦めることなく、互いの違いを認め合って共に歩むための対話の道を見い出していかなければなりません。「違い」があるというのは、本来お互いを生かし合うために与えられた神様からの恵みの豊かさです。愛を生きるうえで不完全な私たち人間ですが、前田大司教さんが言われるように平和も人間の仕業で創り出すことができます。



今日のヨハネによる福音箇所では、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉がありました。永遠の命というのは、「違いがあっても一つ」である神の国の姿、三位一体の神の愛そのものです。その神の愛から誰一人として取り残されることなく、すべての人を招かれている神様の思いを伝えるイエスさまの言葉です。今日の第2朗読で読まれたパウロのコリントの教会の人々に宛てた手紙も、その神の愛に生かされて互いに励まし合って、思いを一つにして平和を築いていくように、というメッセージです。

これからも私たちが「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」と言葉にして、この三位一体の神の名を自分の身も心にも刻みながら、「違いがあっても一つ」である神の愛に生かされて共に歩んでいくことができますように、祈りたいと思います。





 
 
 

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