2022年12月9日「今日のワン」メッセージ
「今の時代を何にたとえようか」
日本の経済について昭和から平成へと変わった時代を振り返って、ある著者が次のような
指摘をしている。「昭和という時代は山に例えれば頂上を目指して登り、ピークを迎え、新たな平成という時代はその山を下降し続けている時代だった。経済成長の実りを味わった昭和の人たちは、昭和が終わった後も、その頂上を懐かしみながら新たな平成という時代を下降しながら生きてきたように思う。今、またその山の頂上に戻ろうと夢見て、登り始めようとしているのではないか。私が指摘したいことは、多くの人は平成という時代が「降り」に終始してしまったことを問題として取り上げているようだが、山の上り降りの問題ではなく、山そのものを変えるべきではなかったか、ということです。そもそも『同じ山で良かったのか?』ということなのです。社会の変化についても同様に言えることだが、平成という時代をどう捉えるか、さまざまなおびただしい論考が世に出されると思うが、私が思うのは『昭和を終わらせられなかった時代』ということです」と。この著者の問題提起は「新しさ」とは何なのか、その本質を識別するうえでとても大切な指摘だと思う。同じ山を上り降りし続けながら、何か新たなものを生産しても、それは過去のノスタルジー(懐古)を満たすに過ぎず、新たなヴィジョンのない山を上り降りして生きているに過ぎない。まるでアイフォーンの新製品が出されるごとに、その「新しさ」を買い求めて並ぶようなものなのかもしれない。しかし、それはまた古くなり、飽きが来て、また新しいものを求める同じ山の上り降りに他ならない。イエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、あの山に向かって、『あちらに動け』と言えばそのとおりになるだろう」と言われた。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」とも言われた。この山も、革袋も、今を生き、時代をつくる『私たち』のことだろう。新しさというのは、変化というよりも「移る」ことが求められているようだ。今日のみことば:「そのとき、イエスは人々に言われた。『今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。(マタイ11・16-18)」

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