「ジェローム・コーベル神父-OFM.Cap-」

那覇教区の引退された押川司教さんが4年間の歳月をかけて、奄美・琉球宣教再開75周年にあたる今年にあわせて、今回「実録宣教史 カトリック琉球列島ミッションー宣教師たちの手紙ー」を刊行された。戦後における奄美・沖縄の宣教再開への経緯とその後の宣教史について記した手紙を翻訳したもので、今、私も読
み始めている。表題にあるカプチン会司祭のジェローム・コーベル神父の死が宣教再開の発端の一つとされていることが手紙には記されていた。沖縄戦最中の1945年6月21日、従軍司祭であったジェーロム神父が乗っていた船が沖縄の慶良間諸島(座間味島)近海に停泊中、神風特攻隊の攻撃を受け、ジェローム神父は即死。神父の遺体は一時的に座間味島へ移送されて埋葬後、本国アメリカへと渡り葬儀がなされた。1946年フランシスコ会のガブリエル神父は教皇庁の命で、奄

美・沖縄を視察し、多くの信者たちがいることを教皇使節に報告。その報告書において当時アメリカの施政下にあった奄美・琉球への本土からの司祭派遣は難しかった為、琉球に近いグアムからの宣教師派遣を提案、またその手紙には捕虜として神戸に囚役中の日本語に長けていたフェリクス・レイ神父(後の那覇教区司教)の名が記されている。この報告書を受けた教皇庁布教聖省は、カプチン会のローマ本部の総長に琉球列島への宣教師派遣を要請することになる。その手紙を
受けた総長はアメリカの管区長にこの要請を打診し、グアムにいる会員たち、およびグアムの司教はこのミッションを受諾。琉球列島は本来なら鹿児島知牧区の一部であったが、一時的にグアムの管轄下に置き(1947年1月13日発布)、宣教再開への準備を整えていくことになった。この頃、フェリクス・レイ神父もグアムにいた。本来、カプチン会は琉球列島への宣教という計画は持っていなかった
が、この未知なる宣教への計画を受諾した経緯とその理由について、手紙の中で総長は次のように記している。「本修道会は日本にミッションを持っていなかったという
事実が、この申し出を受け入れるよう、私たちに強く促しています。私たちはまた、神の摂理の手と呼びかけへの応えを見ることができます。なぜ、私たちの神父が日本人に捕虜されたのか。琉球でのこの新しいプロジェクトがその答えであることを受け入れることは、私たちの信仰の延長線上にあると思いませんか。もう一つの理由があります。琉球の新しい宣教の場は、私たちの兄弟であるジェローム・コーベル神父の犠牲の報いなのかもしれません。戦争末期に、ジェーロム神父は琉球列島の沖縄の近くで犠牲となり、奄美大島(またはそ
の近くの島)に埋葬されています[ZamamiのZの文字が消え、amamiとなり、amami
とZamamiを混同している]。管区は、これを別のケースと考えることができます。すなわち‘Sanguis martyrum‘...[殉教者の血は、キリスト信者の種である…]ということです。」
日本で捕虜となったフェリクス・レイ神父、そして座間味島近海で戦死したジェローム・コーベル神父の存在、またタイプライターの故障なのか、座間味と奄美を取り違いにより、奄美へと降り立った宣教再開への道。これもまた神様のみ摂理なのだろう。「ジェローム・コーベル神父」という名を忘れないでおこう。
今日のみことば:「神よ、わたしに目を注ぎ、強めてください、手をさしのべて」(詩編85)
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