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「今日のワン」(105)

2022年6月28日「今日のワン」メッセージ


 「少し考える時間をください」

7月3日、今度の日曜日に大分で司教叙階式が行われる。叙階されるのは、福岡教区司祭の森山信三神父様。森山神父様が司教の任命の知らせを受けた際の経緯について、インタビューに答えている。

満開に桜咲く4月のこと、バチカン大使館から東京に来るようにとの連絡が入り、戸惑いながら大使館へと出向き、教皇大使と美しい桜を眺めながら談笑した後、「実は、大分の司教にあなたは任命されました」と大使から告げられたという。驚きのあまり耳を疑うようなその知らせを告げられた森山神父様は、「司教職に任命されたことはとても光栄なことです。しかし、私には司教職は重すぎますし、司教職を務めるにふさわしい人間ではありませんので、少し考える時間をください」とお願いすると、教皇大使は「いやいや、このことはあなたが決めることではありませんよ。教皇様からの任命です」と諭され、その場で承諾したと答えている。「少し考える時間」も許されないこの厳しさに、イエスさまの言葉が思い出される。「主よ、あなたに従います。しかし、家族にいとまごいをさせてください」と願うと、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。また、イエスさまは他の箇所でこのようにも言われたことがある。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。互いに愛し合こと、神の国を求め、神の国を伝える使命は選ぶものではなく、命令であって、何よりも優先されるということ。「使命」、「命令」、「任命」という言葉には「命」がある。教皇様はこのような言葉を伝えている。「わたしたちは神を愛し、他者を愛するために、この世にいるのです。ほかの何が変わろうとも、このことだけは変わりません」と。「選び」というのは、与えられてはじめて有するもの。そのように、命は何よりも優先される。そこには命の源である神様の思いが込められている。命は、互いに愛し合うために存在している。それが神の国の姿。神の国を優先すれば、家族も社会も世界も真の自由と平和がもたらされるから。パウロが言うように、わたしたちは自由を得るために召し出された。命は争ったり、傷つけあったり、殺し合ったりするためにあるのではない。その命と命の関係性に自由はない。苦しくて、生きづらくて、悲しみだけが残る。そういう結果をもたらす「選ぶ権利」を自由とは言わない。昨日のニュースのアメリカ最高裁の判決で、「中絶権は違憲」という判決が出された。中絶権反対派と容認派の対立が報道され、世界では「時代遅れ。女性の選ぶ権利のはく奪」と非難の声は大きく、歓迎されない。こうした問題の本質も、命からの視点が後回しにされ、自由を履き違えた選ぶ権利を優先した結果に他ならない。命を守ること、互いに愛し合うこと、神の国をもたらすことに、「選ぶ権利を!」と主張する人間。マザーテレサは言う。「その子をいらないなら、私が要ります。私にください」と。命にはすでに神の愛の掟が刻まれている。その命が脅かされ、混乱した世界が広まれば広まるほど、神の国の福音が望まれているという証し。そこには一刻の猶予も許されないということだろう。「少し考える時間をください」「このことはあなたが決めることではありません。教皇様からの任命です」。すべての命に仕える愛ゆえの使命に基づく厳しい言葉なんだろう。その任命を受け入れた被選司教様。あっぱれである。神の愛に生かされていることを知っている者が受け入れることのできる命令なのだろう。私たち一人ひとりにも神様から与えられている使命がある。そのことを忘れないで、「神の国」に立ち帰る備えをしよう。

今日のみことば:「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモス3・2,4・12)









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