2022年4月11日「今日のワン」メッセージ
「いつでもいらっしゃい」

京都の人から、「いつでもお家においでやす~」と言われて、それを鵜呑みにして家に行ってはいけないらしい。「また来たの?」と不機嫌な顔されるのかな。その土地の慣習なるものがあるのだろう。でも、それは京都に限ったことではないだろう。
「いつでもいらっしゃい」と言ったり、言われたりした「あるある」体験は誰もが持っているように思う。そこには、信頼関係の深さやその人に対する感謝が伺える。
「いつでもいらしてくださいね」と、イエスさまの訪問をいつも楽しみに待っていた家族がいる。それは、ベタニアに住むラザロとその姉妹マルタとマリアである。旅の途中、イエスさまはその近くに来ると、いつもその家族のもとを訪れていた。イエスさまがいつ来てもいいように、いつも準備していたこの家族のイエスさまへの信頼と感謝を「信仰」と呼ぶ。
マリアはイエスさまの為にと高価なナルドの香油を買って、今度イエスさまが訪れてきた時のためにと準備していた。そして、その時がやって来た。マリアはその香油をイエスさまの足に塗り、自分の髪の毛で拭った。おもてなしの深さが伝わって来る。すると、家は香油の香りでいっぱいになった。
「いつでもいらっしゃい」というマリアの信仰には、「いつも準備が出来ています」という心を生きている姿がある。だから、信仰(信頼)はいつも「今日」である。信仰は、「明日」するものではない。信仰を後回しにして、愛が「今日」に来るのなら、その人間の愛は誤魔化しに過ぎない。きっと「逆戻り」するだろう。信仰は今日、愛も今日なら、どうなるか。重荷にしかならない。その生き方は独善的で相手は重荷に感じて、あなたのそばから離れていくだろう。だから、信仰は「今日」で、愛は「明日もある」。それを「少しずつ」という。愛をいつも今日生きているのは、神様だけ。その神様の愛に、私たちが出来ることは、信仰は「今日」、愛は「明日もある」だけである。私たちの愛には、完璧なんてないんだから。私たちの愛は、「これくらいのことしかできません」という程度のもの。いつでも求めてくる人たちに完璧に応えていくことができるだろうか。いつでも隣にいる人に対して愛を持って接することができるだろうか。
「今日は、これくらいのことしかできません」。その愛は「明日もある」ということ。
マリアはその思いで、イエスさまの足を香油で塗り、自分の髪で拭ったのではないだろうか。そのマリアの信仰と愛を、イエスさまは受け取り、自分への愛として完全にしてくれたのである。それが、家を香油の香りでいっぱいにしたのではないだろうか。
人間の「信仰・希望・愛」が、この順番であるのはそのためではないだろうか。
今日のみことば:「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(ヨハネ12・7-8)
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